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2023年11月30日 (木)

第2回全通研Webオープンスクール

2023年度 第2回全通研Webオープンスクール「全通研の前史を知ろう」

講師・全通研京都支部 支部長 持田隆彦氏

  ・学校法人北杜(ほくと)学園 仙台医療福祉専門学校 非常勤講師 宮城支部 半澤啓子氏

 

 11月25日土曜日、午後130分よりWebで開催されました。タイトルを見るだけでもワクワク!講師のお名前も見るだけでワクワク、ソワソワ!! この日を心待ちにしておりました💚

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 司会の石川研究部部長よりそれぞれの講師のプロフィールを紹介しながら、手話に関わったきっかけなどを聞きました。

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 まずは持田さん。1966年(今から53年前ですね)にろう者と一緒に働くことになり、翌年あの「みみずく」(手話サークル)に入会されています。当時は手話は「手まね」と言われていて、バスや電車の中で「手まね」をすると、一般市民からろう学校へ苦情がいったそうです。“「手まね」をやめさせろ!”とか、”ろうの生徒の通学の時間を変えさせろ!”とか… 今では考えられないことですが、その頃はそんな時代でした。

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 続いて半澤さん。半澤さんはご両親がろう者です。家庭の中では手話は共通のコミュニケーション方法。テレビの音声を手話通訳をすることは普通のことだったそうです。半澤さんが20歳の時(1968年)のことです。お父様が病院で苦しみながらも一生懸命手話で訴えているところに呼び出されました。医者は腕組みをしてそのお父様の様子を見ているだけだったそうです。医者は何を訴えているのか何も分からないため、半澤さんは「首の後ろが痛い、ハンマーで殴られているように」と伝えると、そこから治療が始まったとのこと。その時、手話通訳の必要性を強く感じたとのことです。その後、宮城県での耳の日集会にお父様の代わりに出席。その時の手話通訳の様子を見た山家(やんべ)先生から、福島で行われる第17回全国ろうあ者大会に誘われた、ということでした。

 石川部長が、お二人の話を上手に引き出してくださいました。

 持田さんより「みみずく」ができた経緯を伺うことができました。手話の学習をすると必ず「みみずく」=日本で最初にできた手話サークル、と習います。ろう者が入院してきて、そこの病院の看護師さんがコミュニケーションを取りたいと考え、手話を学んだ。その後手話サークルができた。「みみずく」のすごいところは「手話を学んでろうあ者の良き友となり、共に手をつないで、差別や偏見のない社会を実現するために努力する」ということを目的の一つにしたことです。

 私たちが手話や歴史を学ぶ際に出てくることを、持田さんはその当時に実体験されていて、そのことを話してくださったので、そのリアルな様子に感銘しました。

 入院された方は当時の聾学校教師の西田一先生で、仲間がひっきりなしにお見舞いに来られて手話でお話をしています。その様子を見て、さらに看護師さんは手話が必要、手話を自らも学びたいと思ったのでしょう。ろう者を同じ人間として接したい。話をしたい。という気持ちは、苦労して仕事をしながら学んでいる自分たちの姿とも重なったのだろうと持田さんはおっしゃいました。今とは違う社会の状況、歪みなどが背景にあるのだと思いました。

 「みみずく」のネーミングについてもお話されました。定時制の学校に行っている自分たちは夜に活動している。「ふくろう」でもよかったそうですが、「みみずく」の耳のようなものは実は毛(羽角)であること。会員がろう者の「耳」のかわりになるという思いも込められているそうです。

 打ち合わせの際、「みみずく」の手話表現は?という話があり、持田さんが(耳たぶを持つ仕草)で「みみずく」です。当時は手話通訳のこともこの仕草だった。その頃に手話通訳という言葉もなく、この仕草で手話通訳をするみたいになっていた、と教えてくださいました。

7_20231130130201 1963(昭和38)年1220日機関紙「みみずく」創刊号から

 半澤さんは、1968年に開催された第17回全国ろうあ者大会に参加されます。「断り切れなくて・・・」とおっしゃいました。よく分からないまま当日、式典で来賓の福島県知事の挨拶の手話通訳をされました。初めの枕詞のような前置きの話が何を言われているのか分からず、立っているだけだったそうです。20歳の女の子が突然手話通訳! その当時の写真も見せていただきましたが、大勢のろう者の前です。見ているろう者はハラハラしていたのでは…でも、感動したことでしょうね。その後のお話は無事に手話通訳ができたということです。

 そして、全日本ろうあ連盟長に言い寄る若者たちを間近で見たお話をうかがいました。「可愛がられるろうあ者になれ」という連盟長の意見に反発し、「人権」「権利」を主張する若者たち。その中心に若き松本晶行弁護士と高田英一氏がいたとのことでした。

8_20231130130201 1968(昭和43)年 第17回全国ろうあ者大会で手話通訳をする半澤さん

 途中いったん休憩。

 ストレッチは愛媛支部の森川さんにお願いしました。皆さん、一生懸命に見て聞いてしているので、このストレッチは心も体もリラックスできてとても効果的でした。

9_20231130130201 左上:手話通訳、右上:要約筆記、下:森川さん

 

 その後、持田さんからは、「みみずく」に中でできた手話通訳団にこと、1965年に起きた京都府立聾学校の授業拒否事件、3.3声明のお話を伺いました。

 授業拒否事件については、その根底に生徒たちの「分かる授業をしてほしい」という切実な願いを聞き入れない教員の問題があり、さらにその背景に教育委員会の聾教育を軽んじた教職員人事の問題、前述した社会全体のろう者への差別があったことが詳しく語られました。だからこそ、地元京都市のろうあ協会や同窓会が立ち上がり、3.3声明という形でろう者への差別を広く社会に訴えたことの意味は大きかったのだと思いました。

10_20231130130201 1965(昭和40)年 京都府立聾学校高等部生徒会によるビラ

 

 また、半澤さんからは運転免許裁判について伺いました。

 岩手の一人のろう者の青年が起こした裁判が、全国のろう者や支援者による運動へと大きく展開していく様子がよく分かりました。そして、それに伴い裁判に詰めかけた多くのろう者に対して傍聴席での手話通訳を松本晶行弁護士が主張し、そこで半澤さんが手話通訳者として抜擢されたということでした。当時、手話で表現が難しい専門的な裁判用語ばかりで、ただ必死に手話通訳したという半澤さんを、ろう者の人たちが「頑張れ」と励ましてくれたそうです。結局裁判は敗訴となりましたが、全国への大きな運動の広がりや裁判での専門家の証言等により規則が改正され、補聴器の使用が認められました。これによって樋下さんはじめ全国の多くのろう者が運転免許を取得することができたのでした。

11_20231130130201 1969(昭和44)年 日本聴力新聞より(部分)

 

 当時の社会の情景が今とは違い、人としての尊厳などは考えに及ばないことだったのでしょう。苦しく辛い時代を乗り越えて、今があるのだとお二人の話を聞いて思いました。

 今では人権を尊重することや、自分の意志で判断したり行動するということは当たり前のこととなっていますが、当時は「聞こえないこと」=「何もできない、難しい」と思われていたり、聞こえるものが優れているなどの間違った考えが世の中の常だったのだと思います。それを「違う」ときちんと言え、行動できたろうの先輩方に敬意を払うと共に、その時代に理解者として活動された持田さん、半澤さんにも大いに感銘いたしました。さらに今なお現役で携わっておられて、それも素晴らしいことと感じました。

12_20231130130201 左上:手話通訳、右上:要約筆記、左下:持田氏、右下:半澤氏

 

 もっともっと貴重なお話をうかがいたかったです。お二人の歩みをこれからの全通研の歩みの中で生かしていきたいと思いました。ありがとうございました。

                     全通研理事 中島みゆき

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